防長教育会の沿革

防長教育会は、山口県の教育振興を目的として、旧藩主毛利元徳の提唱の下に、2千3百余名から多額の寄付が寄せられ、明治17年(1884年)10月に創立された、わが国最古の民間奨学財団の一つである。

創立当初は、明治維新直後の県の財政事情が窮迫していたので、山口・萩・徳山・岩国・豊浦に設立されたばかりの5つの県立中学校の運営管理を引き受け、6年後の明治23年からは、この5校を私立に変えて全面的に経営に当たった。

明治19年の「中学校令」公布に対応して、山口県は「官立山口高等中学校」の新設を文部省に請願し、管理運営を防長教育会が全面的に担うことを条件に設立認可を得たので、当会は直ちに施設を整備し、文部省の管理下で全国3番目の高等中学校を経営し、明治27年に「官立山口高等学校」に改称後も引き続き経営した。

一方防長教育会は、これらの学校経営と併行して、明治22年に山口県の子弟を大学に進学させるため、「貸費留学制度」を発足させた。

その後、県の財政事情の好転に伴い、防長教育会は経営していた5つの中学校を明治30年9月までに、順次山口県に寄付し、この5校は、現在の県立高等学校となっている。 一方、官立山口高等学校も、明治38年に、曲折を経て全施設を国に寄付し、約18年に及んだ経営を国に返上した。その後、官立山口高等商業学校に衣替えして、現在の山口大学経済学部の基礎となった。

20年間に渡る中学校と高等学校の経営を終えた後は、防長教育会は山口県出身の大学生に対する奨学事業が中心となり、現在に至っている。

当会は昭和27年に、東京に修学する学生のために、武蔵野市吉祥寺に磨心寮を開設し、24年間にわたって多くの学生を収容し、その指導に当たった。
住宅事情の好転に伴い昭和50年に閉寮したが、この寮の売却代金は、その後の当会の奨学事業拡充ための貴重な財源となった。

防長教育会創立以来140年もの間、郷土愛に燃える多くの先輩有志の奉仕と寄付に支えられ、学資や宿舎等の支援、或いは人格陶冶の指導を受けて大学を卒業した学生の総数は、既に2,600名を優に越えた。 そのいずれもが、各界に勇躍として羽ばたき、社会のために大きな貢献をしている。